回転するカヤック

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 ここは日本のチベットと言われる地域にある――それって実はチベットに失礼だと守は最近思うようになったのだが――大学。これだけ多くの人間が全国各地から集まっているのだからして、集まった人間の個性がそれこそ個性という枠では収まりきらないほど多種多様なのも当然といえるだろう。そして枠に収まりきらない個性というのを更に純粋培養してしまう環境がこの大学にはある。

 例えば無駄に広い敷地。自然が多いと言えば環境が良さそうに聞こえるが、道路沿いの並木以外ははっきりいって無法地帯。狸や鼬が闊歩していてもおかしくない環境で、アップダウンの繰り返される道を、学生達は自転車で駆け抜けていく。選んだ科目によっては、貴重な休み時間を教室移動にすべて費やさなくてはならないくらい、この大学は広いのだ。

 これこそ個性表現の極地ともいえる芸術学類の校舎を横にして、西川守――できれば無個性という個性で頑張りたいごく平凡な大学生――は大学内に数個ある学食のひとつに向かって歩いていた。彼の場合、幸いにして自転車を猛スピードで駆らなければならないような授業スケジュールを立てていないので、空き時間は毎日、それなりに有意義に過ごしている。所々で通行人の迷惑も顧みない自転車に難儀しつつも、守は学食へ向かって緩やかな坂を登った。

 左手には芸術学類の学生が作った、凡人には良し悪しのまったく理解できないオブジェが数々。右手には広大な大学敷地内に何個かある、緑に染まって底の見えない池――恐らくおかしな実験生物が底に生息しているに違いない――があった。

 それにしても、暑い――。

 本格的な夏にはまだ早い時期で、この程度の暑さで参っていたらとても秋を迎えられないと分かっていても、今日の日差しは強烈で、守は首筋を伝っていく汗をハンカチで拭った。何よりも真中に上った太陽の光が、白めのコンクリートに反射してとても眩しい。まだこれに蝉の鳴き声が加わらないだけましなのだろうか。いずれにせよ、早く学食に入って日陰に逃げてしまいたい。守がいざ足を速めようとした時だった。

 学生が使う歩行者専用道路に上半身、その脇の芝生に下半身を投げ出して倒れている学生が目に入った。守以外の学生もそれに気づいていて、みな気味が悪そうな顔をして避けて通っている。白い太陽の光を存分に浴びているぼさぼさ頭と、よれよれの服。駆け寄って助け起こしてやらなければ、と思うよりもむしろ、このまま芸術学類の誰かが作ったオブジェだと思って無視してしまいたいという気持ちを起こさせる光景だった。そのうつ伏せに倒れている男を前に、思わず足を止めてしまった守の首筋を不快な汗が伝って、今度は拭う間もなく落ちた。

 落ち着け。
 とりあえず、何も見なかったことにしよう。

 次々と通り過ぎていく学生を手本に、守はその死体のように伸びている男を迂回して、目的の場所を目指して再び歩き出そうとした。関わり合いにならない方がいい、と判断すべき事柄は、この大学でたくさん経験している。磨かれた本能に従うべきだ、と守は思った。

 それにしても、やはり暑い――。


「素通りなのか? 冷たいな、西川君」


 必要以上に大きく迂回して通ろうとしていた守の足を、にゅっと伸びてきたむさくるしい手が、強い力で掴んだ。守がその手に足を止められて、一瞬だけ振り切って逃げようかと考えたけれど、それは余計に暑くなるだけだと思って諦めた。

「……や、お休み中のところを邪魔するのは無粋かと思いまして」

 守は足元に転がっている動くオブジェ、もしくは死に損なった死体に視線を向けてそう答える。

「そうだね、このままだと二度と目覚めない眠りに落ちそうだ」

 そう言って守を見上げつつ遠い目をしてみせたのが、奇人変人の集まるミステリ研究会の会長、つまり奇人変人たちの中でも常に上をいく奇人変人、宝来兼彦(ほうらいかねひこ)である。黒縁のセルフレーム眼鏡をかけている彼は、しばらく髭を剃っていないようで、伸び放題の髭がぼさぼさの髪とあいまって、全体的に寝ぼけた熊に見えた。

「望むところでは?」
「まさか! 大学で行き倒れることを望む人間なんてそうそういないだろう」

 そもそもあんたは人間なのか、と心の中でツッコミを入れつつ、守が口にしたのは別のツッコミだった。

「確かにそうそういないとは思いますが、少数派に属する人間はどこにでもいますから」

 例えばここにも。

「西川君って、ツッコミ系だったっけ」

 いやいや漫才コンビを組んでいるわけでもあるまいし、本来はボケでもツッコミでもないはずなのだが。

「直人に鍛えられましたから」
「あぁ、真壁君ね。彼はまた、典型的な少数派人間だよね」
「そうですね」

 貴方もそんな笑顔で他人のことを言えた部類ではないと思います、という言葉をぐっと呑み込んで守は重々しく頷いて見せた。

「ところで西川君。君はこれから講義かい?」
「いいえ、学食に行こうかと」
「そうか、もうお昼か。確かに太陽が真上に来ている。暑いし、お腹が空いたね」

 わざとらしい話の振り方だな、と守は思ったので確かに腹は減っていても、必要以上に気持ちを込めないようにして答えた。

「えぇ、空きましたね。というわけで、失礼します」

 そう言って歩き出そうとした守の右足を、兼彦はもう片方の手で掴んで引き止めた。

「西川君、君は優しいよね」

 まるでそうあって欲しいという願いを込めたような言い様に、守は思わず足を止めた。止めないと後味が悪すぎる、と思うように仕向けられているとは理解しているのだが、それでも足を止めてしまうのは性格的にいかんともしがたい。物理的に両足を押さえられているので逃げられないというのも確かにあるのだが。

「……何ですか唐突に」

 優しいというよりも根が凡人で、常識というものにほんのちょっと拘りがあるだけだ。

「行き倒れかけた先輩を、こんなところに置き去りにするような人間じゃあないよね」

 守とは違って、常識というものに何の拘りも持たない兼彦は、相変わらず歩道に全身を横たえたまま顔だけを上げてにこりと微笑む。

「……その前に、大学構内で行き倒れないで下さい」
「この大学は結構サバイバルだと思うよ。敷地は無駄に広くて方向感覚はなくなるし、夜は街灯も少なくて暗いし、幽霊話は何個もあるし。遭難してもおかしくないと思わないかい?」

 大学構内の敷地が広いことも、道が曲がりくねっていて方向感覚がおかしくなるのも、街灯が少なくて、そのわりに街路樹はしっかり茂っているから暗いのも、全て兼彦の言う通りだった。しかし、いまだかつて大学内で遭難したという話は聞かない。縦でも横でも、とにかく真っ直ぐに進めば大通りに出ることができるからだ。地下に秘密の基地があるという話もまことしやかに囁かれているが、そこに行ったという話も聞こえてこないことだし。

「後輩に学食代をタカる生活をしている先輩が、自分で勝手にサバイバルしているだけですよ」

 という結論に達した。

「……う〜ん。否定できないしボケようもない……完璧だね」
「光栄です」

 というか、否定されたら流石に怒る。

「完璧ついでに、僕の疑問に答えてくれないか」

 つまりそれに答えるまでは放さないという意思表示か。それなら是非。

「……手短にお願いします」
「努力しよう」

 兼彦は決して爽やかではない笑顔でそう答えたが、その努力が実を結ぶとは到底思えなかった。守はげっそりとして空を見上げる。相変わらず、太陽は容赦なく守の頭を照らして、黒い髪を焦がそうとしていた。

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